「7. 寒天原藻の供給元」 高槻を中心とする大阪府下における 寒天産業の歴史的・文化的・社会的特性

7. 寒天原藻の供給元

天満乾物問屋大根屋小兵衛は天明5年(1785)、江戸での商用からの帰途の際に東海道三島に寄り、南伊豆における心太草算出の豊富なるを知り、下田港に出で、一商人を介して南伊豆一帯の石花菜を買付け、大阪へ廻漕することを託した。これがため伊豆草の毎年大阪に廻着するものは大根屋一手に引受け、摂州製造人に売却し、また貸下げて寒天製造を奨励し、製品を自家に引取って販売の途を開いたので、製造者は漸次各村に拡がった。(大阪乾物商同業組合(1933)『大阪乾物商誌』)


昭和23年(1948)の大阪府における寒天原藻の荷受実績をみると、伊豆を含む静岡県からの荷受実績が102,438貫(38.4万kg)と全国合計259,582貫(97.3万kg)の39.5%を占めている。その他は西日本を中心に広く原藻が供給されている。

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図10 大阪府における昭和23年(1948)度寒天原藻荷受実績

資料:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』をもとに作成

 

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※本文は平成24年度にNPO法人ノートの依頼で筆者が調査した内容を、依頼者の許可を得て掲載しています。

「6. 寒天製造業の立地要件」 高槻を中心とする大阪府下における 寒天産業の歴史的・文化的・社会的特性

6. 寒天製造業の立地要件

寒天は石花菜を煮て造った心天を凍凝させて造るものであるが、これを造る場所としての製造期節は、十一月から二月迄が寒冷で、即ち零下二度乃至五、六度迄の所であり、又西北風の当らぬ所でなければならぬ、若し西北風が当ると早く乾燥して寒天の色を黒くする為め、食用にも工業用にも使用出来ない事となる、故に其の好適な製造所としては、西北に山を負い東南の開展して居る所がよく、又天然条件としては晴天の多い所、雪、雨の少い所、海洋の気象の影響を受けない所がよい、又前記の条件の外水質が優良で、交通(運搬)の便がよく、尚薪灰の安価な所であれば何処でも容易に出来るが、若しこれ等の条件が揃わないとすれば、殆ど其の製造は不可能である。(国民新聞1934年(昭和9)10月20日付「寒天の製造 輸出副業に適す 農林省でも奨励」)。

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図7 晒場(高槻市服部川上氏)

出典:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』

 

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図9 干場(高槻市服部川上氏)

出典:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』

 

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図8 晒場(高槻市原谷口氏)
出典:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』

原藻の晒には豊富な清水が絶対的に必要である上、原藻のアクヌキと水洗いの関係上からも、同じ川の上流に多数の晒場があることは望ましくない。特にすぐ川上に接して他の晒場があり、そこの濁り水や排水がすぐ下流に流される場合は、アクが入って困るといわれるため、晒場が同一河川の沿岸に並んであるときは、(河川水を)分流し、用水は一方の同一の流れから行い、アクの排水は他の同一の流れに行う様に工夫されている。高槻市原の谷口百太郎氏工場では、製造場が段丘上にあって川水を得難い故、芥川に水車を設けて揚水し、さらにこれを撥釣瓶(はねつるべ)で煮熟釜に長い樋を使って入れている。(大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)

 

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「5. 寒天製造に係る労働者」 高槻を中心とする大阪府下における 寒天産業の歴史的・文化的・社会的特性

5. 寒天製造に係る労働者


明治時代、その労働力は季節労働者として丹波・丹後地方から求められ、棟梁・釜脇・上人・中人・下人・雑役・精選という職制が存在した。このうち、晒場・天場・棚場において寒天製造に従事するのは、棟梁以下下人までであり、各1名合計5名が標準的な編成であった。雑役・精選は、労働の質を異にし、近在の貧農層による日雇労働の対象であった。
棟梁は、原藻を釜に投入して心太を棚場に出すまでの製造上の一切の責任を製作人から委託され、寒天の品質や歩留り、労働者の監督などに責任を負った。また釜脇は、心太を捌場に担ぎ出し、寒天になるまでの部門の責任者であった、上人・中人・下人は、棟梁と釜脇の指示に従って作業を行ない、原藻の配合・撹拌・濾過圧搾・成形などの面に熟練を要した。だから、棟梁と釜脇は主体的な分業者であり、上人・中人・下人はそのもとで働く補助的な単純協業者であったということができる。
寒天業の勃興期は丹波・丹後地方の出稼労働者を吸引していたとは考えられず、当時は製作人と、彼から技術を習得した近在の下層農民とが労働を構成していたと考えられ、天明~文化期の北摂寒天業の拡大は、このような労働事情のもとで進展したのである。そして、幕末期になると、寒天製作人は現場の労働から離脱し、経営者としてのみ立ち現れる。すなわち、この時期の寒天業労働は、全面的に雇用労働に依存し、そのほとんどが丹波・丹後地方からの季節奉公人によって占められているのである。(福山昭(1970)『「近世寒天業の賃労働者」大阪教育大学紀要第19巻』)


大阪府経済部水産課による昭和25年(1950)の寒天製造地における労働者の調査によると、調査対象となっている10地区における労働者計729人のうち、46.1%にあたる336人が出稼労働者となっている。昭和25年当時の出稼ぎ人の出身地も、丹波・丹後・但馬の交界地域で、特に丹波が多くなっている。(大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)

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図6 寒天製造地に於ける労働者(昭和25年(1950)2月1日調べ)

資料:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』をもとに作成

出典:福山昭(1970)『近世寒天業の賃労働者』

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「4. 寒天製造の工程」 高槻を中心とする大阪府下における 寒天産業の歴史的・文化的・社会的特性

4. 寒天製造の工程


寒天製造は以下の晒場、干場、棚場の大きく3つの工程に分かれる。晒しの終った原藻から寒天になるまで、天場で2日、棚場で10~15日を要しており、気象条件に恵まれ、もっとも理想的に作業が進行した場合の製造所要日数は、12日間である。寒天製造の労働は、「寒天屋六十日や乞食より劣り乞食や夜も寝る楽もするよ」との寒天歌が物語るように、昼夜兼行の重労働であった。(福山昭(1970)『「近世寒天業の賃労働者」大阪教育大学紀要第19巻」)

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図4 寒天の製造工程
出典:福山昭(1970)『「近世寒天業の賃労働者」大阪教育大学紀要第19巻』

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晒場

9月20日頃から原藻を川原に広げ、水を散布し日光にあてて退色させる。これを唐臼に入れ川水を加えつつ300回ほどつき、草籠(図⑥)にて悪水を除き、洗い上げて泥土・砂礫・介殻・塩分などの混入雑物を除去したのち、10日あまりの間川原に晒し、日光でさらに色素を抜く(初晒)。ついで二番晒として再度同様の操作を繰り返すが、今度は唐臼で500回ほどつき、草籠で洗い上げたのち、川原に設けた棚箕の上に乾す、20日前後して色白くなったのをみて原藻を蔵へ納入⑦。

 

干場

この天場は労働者の住居でもあるが、蔵から搬出された原藻は、ここで各種配合される。それを12月15日前後から焚き始める。①一釜に井戸水10石を入れ、午前8時頃から焚き付け、午後1時沸騰したところへ上の配合草20貫目を投入し、約9時間摂氏80度位に保温する。その問、寒天質の溶出を容易にするため、②拌捧でときどき攪拌し、午後9時頃、差水として水1石5斗を加え、柴1貫目を焚く。午後10時に釜の中から③杓にて⑤漉袋へくみとり、これを④⑧⑨⑩圧搾濾過して⑪大船に受け、⑫かいこしにて35個の⑬小船へ移す。また午前1時頃、二番焚として水1石6斗を沸騰させ、さきの一番粕を釜へ投入し、午前7時頃に絞って小船5個に移しておく。午前10時頃、小船の中で凝固した濾液すなわち心太を⑮馬鍬で適当な大きさに切断し、棚場へ担ぎ出す。

棚場

約4反の畑地の畝に棚を設け、⑭箕を敷く、この箕の上へ心太を⑯⑰筒にて突き出し、天然の寒気によって凍結させる、夜間凍結した心太は海綿状多孔質のものとなり、これが昼間融解すると水および不純分が取り除かれる、この凍結→融解を10~15日繰り返して寒天とする。

出典:福山昭(1970)『近世寒天業の賃労働者』

 

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「3. 明治以降の寒天製造地の分布」 高槻を中心とする大阪府下における 寒天産業の歴史的・文化的・社会的特性

3. 明治以降の寒天製造地の分布

寛政10年(1998)年に大阪町奉行所に株仲間の結成を願い出た島上・島下・豊島3郡18か村は、西国街道丹波街道に沿って分布しているが、それは寒天づくりの立地条件に規定されている。寒天作りは何よりも「至って寒気強き場所」でなければできないが、あまりに山間地に入れば、原料である干藻の入手および製品の運送に不便であり、淀川に近接すれば自然条件はもとより、寒天業に大切な薪炭の採集に困難を伴うからである。(高槻市役所(1984)『高槻市史 第2巻 本編Ⅱ』より編集)


明治34年(1901)の大阪府経済部水産課「明治34年大阪府に於ける主要寒天製造者調査表 [1](大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)」によると、当時の主要な寒天事業者が高槻市(30事業者)および茨木市(19事業者)に集中していることがわかる。特に寒天製造業の発祥の地である服部・原・真上に集中し、また問屋統制期以前(1814年以前)を含めた江戸期創業の事業者も多く存在していた。
一方で、野田・東五百住・太田・田中など、現在は市街化が進行した平野部においても、明治前期を中心に製造家が点在しており、地域の産業として普及していたことが分かる。
[1]その他の産額の小さい事業者は含まれていない。

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図3 明治34年(1901)の大阪府に於ける主要寒天製造者の分布

資料:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』をもとに作成

茨木市北部の上音羽・下音羽などを含め、山間部の豊能町(8事業者)・能勢町(5事業者)においては、主に明治期以降創業の事業者が多くなっており、平野部から山間部へと寒天産業が拡大していることが分かる。

その後高槻・茨木付近の平野部の製造地は次第に消滅し、昭和26年(1951)の大阪府経済部水産課『寒天の地理学研究』おいては、「最も良質の製品は摂丹交界(大阪府京都府境界付近)の山地地域であり、次に良質のは音羽・車作地域(大阪府茨木市)であって、平野部若しくは平野に近い城山・服部地域(高槻市)は余り良質とは言い難い。」とされている。

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「2. 近世寒天産業の統制」 高槻を中心とする大阪府下における 寒天産業の歴史的・文化的・社会的特性

2. 近世寒天産業の統制」

寒天産業は「寒天草千両分で製作すれば二千両余の製寒天となって、原藻の金額の倍額の製寒天が得られて居り」とも言われ、また安永(1772~1780)・天明(1781~1788)の頃より、中国への輸出が盛んとなり、それと期を同じくして天明の頃より生産が躍進した(大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)。

しかも、当時の寒天の製造・販売には何らの規制が無かったため、長崎にて過分の荷物が停滞し価格の下落をきたし、業者いずれも損耗を被り、文化十年(1813)には製造中止を余儀なくされた。その頃、製造者は島上・島下両郡を通じて八十人に達しており、この上さらに製造者を増せば、共倒れとなるおそれがあった。そこで、同業者が相議し、大坂3町人の隋一であった尼崎又右衛門に取締を請うこととなった。又右衛門は、これを町奉行に伺ひ出て、許可を得た。そして文化十一年(1814)7月に奉行よりその旨が布告された。尼崎家の寒天取締は、始め輸出用の長崎廻し品に限られたのであるが、その後藻草が不足・価格高騰し、輸出に支障をきたさんとしたので、文政四年(1821)十月幕令をもって、内地向け商品および藻草の取締も尼崎に一任すべしと命ぜられた。(大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)。


寒天製造の増加とともに、原料の藻草も高騰し、「干藻値段が9年前の酉年(文化十年(1813))と去辰年(文政三年(1820))とを比較するに約4倍の高値となったのは、その因、各浦の採り高減退のためのみにあらず、その道に通ずる者が浦々へ立廻って糴(せり)買し、または買ひ持をなす結果である」とされ、藻草の直売買を禁止して、すべて尼崎家の指示に従うべき旨を命令した。しかし、直売買は各浦において隠密の間に行われ、製造人へ直接売り捌いて巨利を得る者が絶えなかった。そのため、天保十二年(1841)九月には干藻の持圍(かこ)ひ、他所売、糴(せり)売買を禁ずる旨が発令され、干藻は尼崎家一手の取引、地草は長崎廻し寒天仕入問屋天満桶上町(桶之上町難波橋北詰西入)大根屋小十郎、角寒天売捌問屋福井町(現京町橋上通一丁目)天王寺屋治兵衛の二軒と取引せしめ、他問屋の藻草売買を差止めた。(大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)

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図2 明治初年の寒天製造人の各組

出典:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』

 

しかし、間もなくして天保の改革に伴う株仲間停止令(天保十二年(1841)十二月)により、売買すべてが各人の自由となった。天保14年(1843)10月には、長崎廻し寒天(輸出用)に限り取締の便宜上、尼崎家に買上請負を命じ、角寒天は以前の如く製造人の勝手にて売出すべしと命じられた。しかし売買自由となるや、同業者間の競争を生み、いたずらに価格を競上げ、尼崎家の長崎廻し寒天買上げをも困難ならしめた。そのため弘化三年(1846)六月、再び干藻の売買取締を尼崎家に命じ、「荷物の廻着次第、尼崎家と交渉して正路の取引をなすべく、地草干藻ともに紊(みだ)りに売買すべからず」と布告した。後数年して仲間組合が再興され、安政元年(1854)八月、長崎廻し寒天、角寒天ともに旧来の通り尼崎家一手が取り締まることとなった。(大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)


明治維新後の寒天業は、尼崎家の統制から離れ、製造者・問屋互いに独自の境地に立って進むことになったが、従前の統制力を失って、一時混乱が生じた。摂丹製造人は、明治三年(1870)四月に寒天製造商社を組織し、両国製造人を十組に分け(当時、製造者が急増し151人に至った)、各組に社長・執事・管事を置き、生産統制を図った。しかし、まもなく商社は廃止され、統制機関を欠き、混沌たる状態をつづけた。(中略)明治三五年(1902)四月に至り、近畿二府一縣の製造販売を糾合したる組合設立の運びとなり、翌三六年(1903)三月六日創立総会を開かれた。是れ、現今の大阪府京都府・兵庫縣寒天水産組合で、創立当時の組合員数は二百三十八名であった(問屋業三三、製造業一二二、賃焚業七一、仲立業十二)。(大阪乾物商同業組合(1933)『大阪乾物商誌』)

 

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「1. 寒天産業の勃興と伝播」 高槻を中心とする大阪府下における 寒天産業の歴史的・文化的・社会的特性

1. 寒天産業の勃興と伝播

寒天製造は正保4年(1647)に山城国宇治にはじまると伝えられ、天明年間(1781~1788)に摂津の国島上郡に起り、ついで島下、能勢郡に伝えられ、天保年間(1830~1843)に丹波国桑田郡および船井郡に及んだ。その後、天保・弘化(1844~1847)に信州に伝わったとされる。

明治以降は、高槻・茨木付近の平野部の古い製造地が次第に消滅の運命を辿り、工場は次第に山地へ移動する傾向をとる事になった(大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』)。

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図1 寒天業の発展

出典:大阪府経済部水産課(1951)『寒天の地理学研究』

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